成実ってどんな人?

伊達成実 1568(永禄11)年 ― 1646(正保3)年6月4日

 
西暦 年齢事柄
1568 [ 1] 信夫郡大森城に生まれる

父 : 実元、母 : 実元の兄 晴宗の娘→*1
1572 [ 5] 虎哉宗乙が資福寺に入り、師となる
1577 [10] 政宗元服の際に太刀持ちを務める
1579 [12] 大森城にて元服、烏帽子親は政宗の父 輝宗
1584 [17] 家督相続
1585 [18] 桧原攻め、大内定綱討伐(投降したのは1587)、人取橋の戦い
1586 [19] 二本松城へ転封(大森城は片倉景綱が入る)

亘理宗重女と婚姻する
1587 [20] 父、実元死去
1589 [22] 摺上原の合戦
1590 [23] 政宗小田原参陣、成実は黒川城留守居役
1591 [24] 角田城へ転封

片倉重綱(のち、重長)の元服の際、烏帽子親を務める
1592 [25] 肥前名護屋に向けて出立
1593 [26] 朝鮮出兵
1594 [27] 政宗が伏見に屋敷を賜るに従って伏見に住まう
1595 [28] 妻 亘理氏が伏見にて死去

高野山へ出奔(1598?)
1600 [33] 政宗の元へ帰参
1602 [35] 亘理城主となる

通称を「安房」とする→*2
1604 [37] 二階堂氏と婚姻する
1613 [46] 伊達宗実(伊達政宗9男/幼名・喝食丸)誕生
1614 [47] 小僧丸(亘理氏との間の子)死去 4歳

大阪冬の陣に向けて出立
1615 [48] 大阪夏の陣
1620 [53] 妻 二階堂氏死去
1622 [55] 最上氏改易に際して野辺山城を受け取る
1625 [58] 宗実元服
1639? [72] 宗実、成実の養子となる
1642 [75] 『成実記』を著す
1646 [79] 成実没。法名 大雄寺殿久山天昌大居士

辞世の句
 「古来より稀なる年にここのつのあまるも夢の中にぞありける」

トピックス
(1)2007年8月16日(木)宮城県亘理町で成実の霊屋が御開帳されるようです。
詳しくは亘理町役場ホームページへ!
(2)成実の具足が見られます。毛虫の前立ても!
丸武産業さま ttp://www.yoroi.co.jp/shige.html (頭にhをつけてどうぞ)
(3)「歴史街道」12月号に「伊達の三傑」の特集があります!
わずか千騎での捨て身の突撃、人取橋合戦!成実がとても格好良いので是非。

*1

家系図


政宗と成実の関係を示す部分だけ抜粋。
母方を辿れば、政宗とは従兄弟。
父方を辿ると、成実と輝宗が従兄弟になり、政宗から見ると成実は"従兄弟叔父"になるんですね。※従兄弟叔父(いとこおじ)=父母の従兄弟。従祖父とも書く。(広辞苑)



*2

通称

幼名は時宗丸。藤五郎、兵部、安房を通称とする。
「藤五郎」 は、 政宗の元を出奔する頃まで。政宗が藤次郎なので、二人とも略して次郎五郎。
管理人は藤五って言ったりしてますが、これは正しい(?)略し方じゃないのでご注意!
「兵部」 は、 政宗の元に帰参した後(1600)から亘理に移る前までのおおよそ2年間。
「安房」 は、 その後、没するまで用いている。
そして「藤五郎」と「安房」は亘理伊達家代々の通称となる。息子 宗実も治部大輔の後、安房を称してますね**

参考にさせていただきました

成実三昧さま
ウィキペディア
歴史群像シリーズ 戦国コレクション 風雲 伊達政宗 ←これ、本気で欲しいです。図書館で凝視(笑)して借りてきた
名城をゆく 19 仙台城
成実記 (抜粋されたものを少し)

最後に

資料を目にするという機会がとても少ないので、まだまだ勉強中です。
参考程度にご覧いただけると幸い。間違いや「ここおかしいんじゃない?」って箇所がありましたら迷わずに 突っ込み ご連絡をお願いします。
亘理に行って写真撮ってこれたらいいなあ。
それに成実出奔のとき、直江がちらりと関係してくる?あたりを知りたい!